小さき精神を出し抜くデザイン

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ユーザーインターフェースのデザインは、ユーザーがそのシステムを理解し、制御できる力を持てるようにすることを目標とする。出力は画面やスピーカーから、入力はキーボードかタッチスクリーン、もしくはジェスチャーで行う。そしてそれらのユーザーは、我々の意識、すなわち、状況を掌握できていると思っている脳の論理的な部分であると想定されている。

しかしその意識は、自らが思っているほどには状況を掌握できていない。実際、意識よりも大きくて、大抵はずっと賢い精神、すなわち神経系のうち感情的で無意識で並行処理やパターン認識を担う部分は、意識を操作したり欺いたりすることすらあるのだ。このことはずいぶん昔に二重過程理論としてまとめられており、Kahneman(カーネマン)はそれらをシステム1(思考の広大で素早く自動的な側面)およびシステム2(理論的な検討と判断を行う小さな意識)と定義する。

我々の意識は基本的な適応機能を備えており、戦うこと、交配すること、あるいは一日の暮らしの中での些細な判断に至るまで、自信をもって臨めるようになっている。しかし我々が構築している自信とは、精神のうち小さく論理的な部分におけるものであり、頭の中の別の部分では違うと察しても、それでよいのだと、自らを欺いているわけだ。

このことはトリヴァース(Trivers)が報告した実験で述べられている。その実験とは、被験者たちは一連の音声を聞くように指示され、その中に被験者本人の声も混ぜているというものだ。被験者の自信の度合いによって、自分の声を他人のものだと誤認する者や、逆に他人の声を自分のものだと誤認する者が出た。興味深いのは、副交感神経系に通じているガルバニック皮膚反応を見ると、被験者の意識が欺かれた時にでも当人の声に一貫して同じ反応を示していたことだ。(Trivers, 1985年)

我々は、我々が下す判断であれ、自分がどのような気持ちなのかの自覚であれ、世界が常に秩序ある理路整然とした場所であり大抵の場合は何が起きているのかを理解できていると、自らに言い聞かせ続けている。しかし実際は、世界は複雑で混沌とした場所であり、世の中で起きていることの大半は、我々の体内での出来事も含め、我々の小さき精神の理解と(幸いにも)制御を超えたところにある。

よって優良なデザインとは、より広大で、高速で、感情的なシステムと繋がるものなのである。我々がフロー状態、ZONEなどと呼んでいるものは、単に我々の小さき意識が道を譲り、我々のより大きく直感的な精神が主導権を握れるようになった状態に過ぎない。バスケットボールを投げる動作にせよ、車の運転にせよ、我々の論理的な意識が各段階を調整しようとしたら、すべての段階を適切に連繋させるのは不可能に近く、困難だろう。しかし我らが小さき意識は、我々がその行為に熟達している場合には、残りのシステムが状況を支配できるように道を譲るだけの賢さは持ち合わせているのである。

だとすれば、なぜ我々は、システムの構築や把握の際、頑なに小さき精神の考えに基づいてそれを行おうとしてしまうのだろう? 限局的な知識や理論的な能力だけが評価対象となる学校のテストや、プルダウンメニューやマウスポインタといった、ユーザーがどこに意識を集中しているかに基づいたユーザーインターフェースのデザインなどを想像してみてほしい。

僕は、我々のシステムのうち、これまで考慮されてこなかった残りの部分に情報を送り、そこから制御的な信号を受け取るインターフェースの開発に注力すべきだと考えている。これは健康管理用のセンサー、補助ロボット、インターネットそのもの、サーモスタット、未来の乗り物などに適用できるのではないかと思う。

問題は、個人レベルでも集団レベルでも、我々の小さき意識が主導権を明け渡したがらない点だ。それには、時に意識を騙して、道をあけさせる必要がある。そこで欺まんの概念がデザインパターンの1つとして浮上する。

1800年代終盤、マサチューセッツ州スプリングフィールドの牧師兼体育教師ジェームズ・ネイスミス(James Naismith)は、厳しいニューイングランドの冬期、落ち着きをなくして荒れてしまう子供たちへの対処法を追求していた。彼らが毎年、冬季以外の9ヵ月間は得られている運動と協力と競争の機会を欲していることはわかっていた。

そこでネイスミスは、バスケットボールを考案し、子供たちが新しく楽しい遊びを通じて屋内で運動し、競争し、協力できるようにした。バスケットボールはとんとん拍子に成功し、各地のYMCAを通じて広まり、今日知られている人気スポーツへと発展していった。僕に言わせれば、彼があのスポーツに「ソーシャルボール」とか、「なかよしボール」といった名前をつけていたら、これほどの人気は得られなかった気がする。

この命名の控えめな欺まんは不道徳だっただろうか? 効果はあったのだろうか? ネイスミスが訴えかけようとしたのは、精神のどの部分だったのか? そしてその声はどの部分に届いたのか?

今日の我々は、自分たちの、自ら騙している意識に対して、どうしてほしいという要望を伝えるのに時間を割きすぎている。瞑想や遊び、祈り、もしくは欺まんを通じ、意識などが道を譲るように仕向けるのにもっと時間を使ってみたらどうだろうか。工業デザイナーのような発想(意識的なユーザーの意図に応えるためのデザイン)を減らし、もっとゲームデザイナーのような発想(各種の欲求や、精神の素早く非合理的な反応を想定したデザイン)をすべきではなかろうか。我々が自らにこうしているのだと言い聞かせている思考や行動からではなく、実際に行っている思考や行動から影響を受けるかたちで、医療用機器、コンピューター、乗り物、コミュニケーション用のツールをデザインする必要があるのだ。