固定観念からの脱却、自由な発想が世界を変える

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固定観念を植え付けている物とは何か?を社会や秩序、未来について考察することで紐解いていく。2015年10月24日にオハイオ州コロンバス市にあるオハイオ州立大学で行われた「オハイオの学生のための自由地域学会」のプレゼンをもとにしている。


この学会の開会のあいさつで「社会を変える」という大きなテーマについて触れてもらい、大変喜ばしかったということを言っておきたい。世界を変え、より平和な世界を築き、ひどく圧制された社会を作らないようにする、という内容だった。どれも議論するのにすばらしい話題だし、壮大な目標だ。しかし開会のあいさつでも述べられたように、数名の学生が、湿っぽくて暗い大学の地下室で議論しているだけでは何も解決しない。目標を達成するには何かしらか行動に移す必要がある。

今日ここで話したいのは、プランを練るということ、4つの社会、学校と教育、未来についてだ。まず話を進める前に「社会の変化」とは何を指すのかを理解しなければならない。

プランを練るということ

多くの人々が「より良い世界を見たい」と言う。このような人たちは支配や戦争などがない世界を好む。より良い未来を築くために、その世界が実現する可能性を信じ、それが理想的であると信じていなければ、皆さんはここにはいない。

しかし、それは具体的にはどんな世界だろう。「世界を変える」という終わりのない議論は山ほどあるが「より良い社会をつくる」という視点ではどうだろうか。

少なくとも、私たち自身が描く未来については、大きく分けて2つある。

  • 個人的未来 — 自分自身どんな人生を送りたいか。
  • 社会的未来 — どんな社会で自分は暮らしたいか。

この2つの質問に答えられない限り、あるA地点からB地点に到達するための、いいアイデアはきっと見つからないだろう。戦争のない世界で暮らしたい、と言う人がいるかもしれないが、戦争のない世界であっても、とてもひどい未来になる可能性は否定できない。我々が望む人生とはどんなもので、生活をしたい社会はどんなものなのか、ということを自覚しない限り、おそらくB地点に向かうことはできない。

人生は宝クジじゃない

Peter Thiel氏が2014年に出版した衝撃的な書籍『ゼロ・トゥ・ワン — 君はゼロから何を生み出せるか』をここで取り上げたい。Thiel氏はこの書籍で、起業家として新規事業を成功させた自分自身をどう捉えるか、ということを書いている。しかしこの本から得られる教訓は他の分野でも活かせることが多い。

新規事業が成功する確率についての統計を見たことがあるだろう。どのくらい失敗したか。どのくらいピボットしたか。どのくらい資金調達に成功して失敗したか。Thiel氏は統計や市場規模で物事を捉える思考を完全にやめるように言っている。このような考え方をすると、自分自身の意志や抱く野望、自分で考えたプランを、それがどんな策であれ、統計が示す最善策に従って諦めてしまう事になるだろう。

Thiel氏は世界の考え方について、いくつか紹介している。その中で彼は世界観を次の2つのカテゴリーに分類した。

  1. 未来に導いてくれるような世界
  2. 未来はどの様なものかを教えてくれる世界

社会と文化というのは、楽観的悲観的かのどちらかに分類され、さらに明確あいまいかに分類される。楽観的な文化では、世界は向上し続けており、未来は生きていくのに価値のある場所であると考えられる。

アメリカは楽観的文化の典型的ないい例だ。冷戦中の、いつモスクワの狂人に消されるか分からないという時でさえ、アメリカ人は空飛ぶ車や火星に移住する未来を思い描いていた。一方、中国やヨーロッパは悲観的文化だ。

どの文化も、明確かあいまいかのどちらかに振り分けられる。到達したい未来へのプランがあれば、それは明確な文化だ。もしそのプランがないのであれば、それはあいまいな文化だ。

中国は、明確で悲観的な文化である。中国人以外の全ての人々が中国が世界一の国になると思っているが、中国人本人たちはそうは思っていない。彼らの築いているものはどんな物か? 彼らは欧米人がすでに築き上げてきたものしか築いていない。軍隊、都市、石炭発電所、原子力発電所など、目新しいものは何もない。革新的なものが中国から生まれることは無いのだ。中国はトップに立つことがない未来を築いていることになる。

一方ヨーロッパはあいまいで悲観的な文化だ。ヨーロッパ人は世界はひどい方向に向かっていると考え、それならと酒を飲み人生を楽しみ、3ヶ月にも及ぶバケーションを取得したりする。

あなたの場合どうだろうか。大半の人は自分自身の未来は楽観的に捉えていると思うが、しばらくはその事を忘れて話を進めたい。

あなたには未来を作る具体的なプランがあるだろうか? もしくは成行きに任せて生活しているだろうか? 3年後までに成し遂げたい事があるだろうか? 5年後、20年後は? あるいは生涯同じ職場で働き続けたいと思っているだろうか? 初婚の相手と添い遂げるのか? 最初に住んだ街に今後もずっと住むつもりか?

成功するためには具体的なプランが必要となる。私のやっているPraxisに関する仕事では、多くの成功者に会い情報を交換している。もし彼らの共通点を1つ挙げるなら、彼らは皆ずっとプランを持ち続けているというのが共通していることだ。新しい情報を仕入れたり、新しい機会に遭遇したら、そのプランを変更することもあるかもしれないが、彼らは常にプランを持っている。

あなたのこれからの人生を想像してみてほしい。それを真剣に考えたなら、それを達成するためのプランを練ってほしい。

社会はゲームの様にはいかない

あなたの将来や過ごしたい社会について考え始める前に、注意したい事が1点ある。戦略ゲームの様なプランの立て方をしてはならない。戦略ゲームであれば、周囲を動かしたり、物事を行ったりする事は簡単だろう。


シヴィライゼーションVでは中央計画局かの様にプレイする事が可能だ

この様なプランの立て方は、各個人が自分の人生設計するにはベストな方法だろう。しかし各個人が各々のプランばかり考えていては、他人の事を考え、まとめることなどできない。

つまり、中央集約的なプランの立て方ではなく、大衆集約的な考えが必要ということになる。

価格制度は、その制度のうちの1つだ。価格のシグナル効果は、あるリソースを最も欲している人がそのリソースを手に入れる事を手助けすると同時に、起業家やイノベーターにとっては、そのリソースを探すべきか、代替手段を探すべきかの判断材料となる。

コモン・ロー(一般的慣習法)もまた、この制度の1つだ。コモン・ローは議論を選別し、一緒に取り組むことのできる新しい方法を発見させてくれる、ありきたりだが進化し続ける制度である。

4つの社会

オーストラリア人経済学者のF.A. Hayek氏は政治的秩序について2種類に分類した。それが自生的秩序「つくられた」秩序だ。

「つくられた」秩序とは、中央計画当局が全てを設計した社会のことだ。ソ連がそのいい例である。価格は組織や人民委員、中央計画当局のプランによって決められていた。これは政治的、経済的なプランに対してだけでなく、個人的なプランにもそうだった。例えば、もしソ連で鋼鉄界の大物になりたければ、官僚によって「鋼鉄関係の仕事にふさわしいのは君だ」と指名してもらう以外ない。

自生的秩序とは、いろいろな進化の仕組みの中で、想定された混乱から生じる秩序のことだ。自由市場社会とは自然発生的に整った秩序のもとに成り立っている。100、1000、100万単位のお金のやり取りが毎日交わされ、価格上昇は購買へのスタンスや投資のガイドラインとなる。例えば、もし自生的秩序の中で鋼鉄界の大物になりたければ、商業界という領域の中で働けばいい。これは、政治的秩序よりかなりオープンで自由な方法だ。

自生的秩序の優れた点は、鉛筆の非常に複雑な構造を思い浮かべると分かりやすい。分散された知識を仕組みによってまとめられた時に、鉛筆の様な複雑な物をつくりあげることができるのだ。

リバタリアンと自生的秩序

リバタリアン(自由至上主義者)は中央計画当局によるプラン作りに反対し、激しい非難を受けた。ケイトー研究所で論文を発表し2012年度SFL Aluminus of the Yearを受賞したリバタリアンであるThiel氏までもが「リバタリアンには明確なプランがないようだ」と言われている。(Thiel氏はリバタリアンである事を告白している)

これは興味深いことだ。というのもリバタリアンからより自由でよりよい社会をつくる明確なプランが提案されてもおかしくないのに、Thiel氏とその同僚が描いたリバタリアニズムには、明確で楽観的な未来づくりに反対する以外、政治経済の考え方がなかったからだ。

リバタリアニズムが主張するのは、国家がプランを立ててはならないということに尽きる。F.A. Hayek氏が述べた「国家がプランを立てれば立てるほど、個人に困難を強いるプランになる」という言葉はその後押しをしている。
またHayek氏はKeynes vs. Hayek Rap, Part IIで次の様にも述べている。


何もしたくない。やるべきことばかりだ。
私の悩みの種は、誰のために誰がプランするかだ。
私が自分のためにプランを立てればいい?
それとも君に任せる?
みんなで立てたプランがいい。ひと握りの人じゃなくてね。

私が強く勧めたいのは、自分でプランを立てるという事と、出来る限り各々が認められる社会を築くことだ。これこそリバタリアニズム論者の描く自由な社会のアウトラインだ。そこでは、各々が明確な楽観主義に従って行動しているが、同時に各々がプランを立てられる政治的、経済的秩序の中で生活している。

どの様な社会がよいか?

社会は次のようなマトリックスで分類できる

最も住みやすいのは、自生的秩序のもとでの明確で楽観的な社会だ。この社会では、個人が自分の周りの生活と未来を築くことができる。人々が他人とは違うことを認め合い、好きなように生活ができ、政府は徹底的に排除されて、個人に干渉しない。これは技術的な発展を遂げる社会の前提条件だ。企業が20世紀半ばにシリコンバレーに移った理由は? 規制がなかったからだ。ボストンやニューヨークやシカゴよりも起業が簡単だった。同じことが1800年代のピッツバーグ、現在のシンガポールに当てはまる。

それ以外の自生的秩序を持つ社会はいくつか存在するが、その社会に向かう理由に欠ける。それはアメリカの大停滞の様に、採りやすい果実を全部採り終えた社会だからだ。

あいまいな未来を持つ「つくられた」秩序とは、ヨーロッパの福祉国家のようなものだ。何ごとにも規制や制限があって税がかかり、国家の監視が必要だ。文化の上では未来へのプランがほとんどない。税金と規制と監視と繰り返しがあるのみだ。

明確な未来がある「つくられた」秩序では、その中に生きる人には間違いなく良いところだが、自分自身の未来を築くには向かない所だ。政府は中央計画当局で立てたプランに従って全てをコントロールする。宇宙開発競争時代のソ連や現在の中国を思い浮かべてほしい。

多様性を認める「明確な未来のある自生的秩序の社会」

文化と秩序が寛大であるほど、人それぞれの人生プランが飛躍できる。明確な自生的秩序は他のどの社会よりも多様性を認める。もし自分の生活を自在にあやつり、キャリアや家族や人生プランの本来の豊かさを知りたければ、ここが生きる場所だ。政府の重荷から逃れた起業家、成功した職業人、改革者、知識人がいる社会だ。決して完璧なところではないが、他のどのオプションよりも各々がはるかに簡単に政府の規制を受けずに自分の人生を築くことができる。

他の社会のもとでは、どれも違ったやり方で規制をかける。自生的秩序であいまいな社会のもとでさえ、人々には想像力が欠けて外に向かえず、自らの手で人生を築けなくなっている。文化は人に抑制をかける。人々に無関心と野心の喪失をもたらし続ける。

今、私たちのいる「あいまいな領域」

自生的秩序、明確な社会へと移行すると私は楽観視しているが、まだ実現してはいない。ITスタートアップや『スティーブ・ジョブズ』、『ソーシャル・ネットワーク』といった映画のような魅力的な話はさておき、秩序や社会を刷新するのは非常に難しいのが現実だ。人々の生活を変える様なイノベーションを起こしたい人は頑張ってもあらゆるところで規制に阻まれるだろうし、社会評論家からは常に批判されるだろう。VCからは「また金持ちのためのサービスか。」と言われ、手を引かれてしまうはずだ。

無関心な文化(Elon MuskやJeff Bezosが時折出してくる大胆な考察は別にして)とマルクスを赤面させる規制国家のどちらかとすれば、自生的秩序と「つくられた」秩序の間にあるあいまいな領域に私たちは存在している。物には値段が付けられ、うわべでは市場が存在するも、規制が厳しく将来の見通しが立ちにくい。

規制を強化すれば「つくられた」秩序へと向かうことになる。現在、政府のために働く役人は300万人いる(アメリカ)。
必ずしもこのまま、というわけではない。イノベーターたちが導くだろう。

一昔前、我々は半導体や製鉄業などから足を洗い、会計事務や国務省などの仕事へと向かった。

どのように現在ヘたどり着いたか?

この質問には多くの意味が込められている。ある世代がどのように過ごしてきたか、法や法整備が今どう機能しているか、そして文化はどう影響しているか、などだ。これらは、主にベビーブーム世代への非難にされがちだ。

責任転嫁が有益になるとは言えないが、意味はあると思う。ベビーブーム世代はあいまいな思考を持って育った。彼らはもっと良くなると期待される環境で育ったのだ。彼らは医者や教師、秘書など望む仕事に就けると言われて育った。

このことをThiel氏は次のようにうまく表現している。

右肩上がりの発展を当たり前に享受してきたベビーブーマーは、あいまいな楽観主義者の世代となった。1945年、50年、55年に生まれていれば、18歳になるまで、自分とは全く関係なく生活は良くなっていった。何もしなくてもテクノロジーはどんどん進歩するかに見え、ベビーブーマーたちは大きな期待を抱いて成長した。でも、その期待を実現するための具体的な計画を持つ人はほとんどいなかった。既成のキャリアで自分たちが成功できたのだから、子どもたちもそれでうまくいかないはずがないと思い込んでいる。 — Peter Thiel『ゼロ・トゥ・ワン — 君はゼロから何を生み出せるか

しかし全てが彼らの責任ではない。彼らの未来に対する創造力や野心の欠如だけが、現状に至った理由ではないはずだ。それ以上の何かが文化にはある。

文化とは複雑だ。中心に動力源となるモーターを持たずとも、多くの部品が動く様な複雑な構造をしている。しかし現在のアメリカに住む全ての人は、同じように情報の処理をし、同じように世界を見ている。1つの制度、1つの仕組みが個人の生活に大きく関わるため、方向性や育ち方がやや示され過ぎてしまっている。その上、文化的批判にはさらされない。この制度こそが政府の作った学校なのだ。

学校と教育

学校に通っていた頃を思い出してほしい。公立の学校に通ったのであれば、みなほぼ同じような経験をしているのではないだろうか。どんな毎日だったのか思い出してほしい。どんな時間割でどんな教科があったか。学校が学校たる所以は何だったのか。

学校を社会のマトリックスに当てはめて考えてみよう。

学校とは行かざるを得ない場所だ。当局(全く知らない遠くに住む人)によって一日のスケジュールは決められ、行動は逐一管理されている。トイレへ行くにも許可を必要とする。

義務教育はマトリックスのどこに当てはまるだろう?

確実に秩序は「つくられた」秩序の方である。学校は自生的秩序からかけ離れている。不良グループができるかもしれないが、これもクラスでの位置づけや先輩後輩関係、社会との付き合い方が分からないなどの理由から生まれるものだ。

「つくられた」秩序を小さくした例は、学校なのだ。構造も独裁的だ。学生食堂は、カフェテリアというよりは省庁の食堂のようである。

公立学校の最悪なところは、制度でがんじがらめになっているところだ。優秀な教師は生徒に良い影響を与えようと奮闘するが、行政の教育方針や試験制度、官僚制度などに徐々に悩まされ、最終的には徹底された管理システムに失望したり、押しつぶされたりし、教師を辞めてしまう。歴史家で元教師のJohn Taylor Gattoは、公立学校の教育を「誠実さに欠けた病んだ良心」と言っている。

ちょっと大げさでは?と捉える読者もいるかもしれないが、現にアメリカの新しい試験基準では、古典文学ではなく環境保護庁の手引きを読むことが義務づけられているのだ。どこの国語教師がこれを教えたがるというのか。

学校が「つくられた」秩序の典型例とした場合、教養的にはどうだろう。国家の後押しのもと、最低限の人生を若者たちに用意するだろうか。もしくは生徒たちに無気力さや、影の貪欲さ、あいまいな意見を養わせるのか。

学校とは、根本的にあいまいな制度である。時間割や成績、学期などがそうだ。
好きな科目の授業が楽しくてたまらない時の事を思い出してみてほしい。それは美術、公民、あるいは数学だったかもしれない。ある時突然チャイムが鳴る。授業はそこでストップし、みな退出。次のクラスがある教室へ移動する。なぜ毎回次のクラスのために(楽しかった)授業は中断され、次の事を気にして移動しなければならないのか。それも60分毎に。45分毎かもしれない。(あるいは39分毎かもしれない。私の高校は変に短くいら立たせるものだった)

仕事や私生活でもこのようだったらどうだろうか。やりがいのある提案を企画している時に、終了のベルが鳴り、次の作業に移らなければならなくなったらどうだろうか。パソコンの電源を切り、別の部屋に移動する。全く別の作業に着手する。あるいは自分の子どもと遊んでいる時に、ベルが鳴り、別のことをしなければならなくなったとしたらどうだろうか。別の場所で別の人と別のことをしなければならなくなったらどうだろうか。

学生が教科に無関心でも不思議はない。勉強が好きな生徒であっても、毎回中断させられていれば息が詰まるだろう。私はアメリカ史が大好きだったため、次の授業の先生には悪いとは思ったが、授業が終わってもクラスに残り、歴史の先生といろいろ話し合った。将来を見据えられる程に夢中になるには39分は短すぎるのだ。

学校は優秀な若者に対して、何を用意するだろうか。学校は大学に入る準備をしてくれる。若者の情熱や使命感は二の次に、大学の入試担当者に受けの良い履歴書を用意したがるだろう。Thiel氏も著書で次のように書いている。

未来はどうなるかわからないという考え方が、何より今の社会に機能不全をもたらしている。本質よりもプロセスが重んじられていることがその証拠だ。具体的な計画がない場合、人は定石に従ってさまざまな選択肢を寄せ集めたポートフォリオを作る。それが現在のアメリカだ。目標を掲げる代わりに、ありとあらゆる選択肢をいつまでも追いかけ続けている。中学校では、さまざまな「課外活動」にいそしむよう勧められる。高校では、野心のある生徒は自分を万能に見せようとさらに競い合う。大学生になる頃には、10年をかけて多様な経験をあれこれ寄せ集め、全く先の見えない未来に備えているというわけだ。「何が起きても大丈夫」と言いながら、具体的な備えは何もない。

学校は若者に対する社会の印象を最悪にしている。それは学校というところが、どこか遠くの世界の誰かに自分の運命をコントロールされている社会だからだ。校長や管理人、教育事務局や大学の入試担当者、その他の中央計画当局のプラン担当者などに、自分の人生は委ねられているのだ。自分でどうにかできるものではない。だから彼らに気に入られるためにも万能にならなければならないのだ。

これが虚像でも現実でも驚かないでほしい。学校というものは限界を迎えているのだ。祖父母の世代の中には学校に通わずに済んだ人も多い(学校に通わなかった彼らの人生もそれなりに大変だった)。親の世代では、一時的な救済措置がところどころであったかもしれない。しかし今日では、若い世代は、保育園から18、22、26、時には30歳まで学校に通うことになる。24や25で学位を取得しても、社会や人生に何を求めればよいのか分からない若者は多い。「学位を取ったら仕事に就けるよ」と言われ、何も疑問を持たずに、その通りにしてきただけなのだ。それらがquarter-life crisis(若者が人生に疑問を抱く問題)、不本意な就職、あるいは政治主張に走る要因につながるのだ。

教育のせいではない

まずは、あいまいな未来を許容する、つくられた思考パターンから脱却する必要がある。それには教育と学校を別々に精査し、教育と学校は切り離して考える必要があることを理解しなければならない。公共施設にも関わらず学校で行われる教育がこんな状態なのは、教育のせいではないのだ。教育とは生涯続いていく日々積み重ねるものであって、12年や16年間だけの単調作業というわけではないのだ。

未来をつくる

この記事のタイトルから、何らかの行動喚起を期待しているかもしれない。私は決して学校を否定するものではないし、(アメリカにおける)ヨーロッパ福祉国家の悪夢に対するデモ行進を助長するものでもない。極端であるが、シンプルな2つの行動を促したいと思っている。

1. すぐできること:人生設計を行う

自分の人生は自分の手で掴むものに他ならない。国家や州の試験規格によって左右されるものではない。高校で受けた試験で、自分の歩むべき人生は決められはしないのだ。子どもの頃に感じた学びの喜びを思い出してほしい。そして自分の欲しいものを明確にし、それを手に入れるための計画を時間をかけて作るのだ。つまりは学校で学んだ固定概念を捨てるということだ。

それは簡単にはいかない。しばらくは毎日意識して取り組む必要がある。私自身もまだ実行中の身だ。友人や同僚が学校に通い続けていたりしても、自分自身の教育をコントロールすべきである。趣味を見つけたり、書きたいと思っていた小説を書いたり、新しいビジネスを学ぶコースを受講したりすることを勧める。

あいまいな未来を受け入れる思考から脱するだけでも良いかもしれない。明確な思考を持つべきである。自分の人生を今ある自生的秩序の中で設計するのだ。

2. 近いうちにできること:自由な発想を持った人を育てる

多くの人はいつか子どもを持ちたいと思うだろう。実際に親になる人もいるだろう。子どもが学校に通う年齢になった時に、無意識に近くの公立学校に通わせてはいけない。あいまいな未来しか提示できない様な病的な公立学校に通わせてはいけないのだ。学ぶことを愛し続け、社会に興味を持ち続けられるような子供にしてあげたい。

これは政府の教育制度という魔物の犠牲者を防ぐことを意味する。自宅教育、あるいは私立の学校に通わせるのも手だ(学費補助制度を要確認)。

子どもを持ち、子どもの教育を考える時期が来たら、この記事を少しでも思い出してほしい。子どもの気持ちになって、世界に興味を持った時の感覚を思い出してほしい。自由な発想を持った人を育ててほしい。

自分の未来、子供の未来、社会の未来

自分の未来は自分で築くべきである。しかし子供に対しては自らの手で人生を構築する自由な環境・社会を与えてほしい。脱学校教育を必要とするのは我々世代で終りにするのだ。自分の人生を構築し、自分の人生を構築する力を次の世代に与えるのだ。


参考資料
・Peter Thiel著『ゼロ・トゥ・ワン — 君はゼロから何を生み出せるか
・John Taylor Gatto著『The Underground History of American Education
・Peter Gray著『Free to Learn