なぜWebデザインは終焉を迎えるのか、さらに考える

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チリ人デザイナー。Continuumディレクター、起業家。@shesho

コンテンツとモバイルテクノロジーの関係の変化

前回の記事「Webデザインの5つの敗因、そしてUXデザインへの転換」には、多くのコメントが寄せられた。

これらの記事やコメントの中の反論は、以下の4つの意見にまとめることができる。

  • 私たちには、まだまだWebデザインが必要である。不十分なWebデザインのサイトが普通であり、人々は現在、デスクトップやタブレットやモバイルで、これらのサイトを使用している。Webページの存在なしでやっていけるビジネスは、ほんのわずかしかない。ほとんどのWebページは、いまだにレスポンシブではない。それなのにどうして、Webデザインの終焉などと断言できるのか? Webデザインにはまだ、やるべきことがたくさんある。
  • コモディティ化、テンプレート、そしてオートメーションは、Webデザインの不十分な認識の象徴であって、私たちの仕事がこれ以上残されていないというわけではない。実際のところ私たちには、よく考えられたオリジナルのWebデザインでコモディティ化と戦うことが求められている。
  • モバイルは、Webを終焉に追い込みはしない。万能なアプリなど存在しない。より多くのユーザがモバイルフォンからインターネットにアクセスしている。これはつまり、より多くの人々がWebブラウジングできるということである。一体どのようにして、モバイルがWebに終焉をもたらすというのか?
  • Webデザインの終焉を断言することは有害である。私たちがWebデザインについてディスカッションし、改善を続けることを止めてしまうからだ。Webテクノロジーは今も健在である。私たちの技術を完璧にする手助けをしてくれるものに、終止符を打つことはできない。

この中のいくつかの主張は、すでにUXマガジンのJosh Tysonとの会話の中で出てきたものだが、注目に値するので載せておく。リンクをチェックしてみてほしい。とても優れたコンテキストだ。

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コンテンツはもはやWebに縛られるものではない

Flipboardを使っているだろうか? Pocketは? Google Play Newsstandはどうだろう? これらを使って、多くのコンテンツ(この記事でさえも)を閲覧することができる。しかし、Webページではない。そう見えるが、違うのだ。記事のデザインをコントロールすることはできない。実際のところ、ユーザはこれらのアプリに画一性を期待するため、ブランド化やレイアウトにはそれほど気を取られず、コンテンツ自体に集中する。

コンテンツ(とツールの場合のファンクション)は、決して消えることはない。ヒューマン・エクスペリエンスの全ての核となるものだ。面白いことを知り、体験したいという願望は、私たちの本質の一部だ。テクノロジーは最善の働きをしており、私たちとコンテンツの間にあるより多くのバリアを取り除く。10年前、Webデザインが全てであるかように見えた時代、デジタルコンテンツの消費は椅子と机に縛られていた。現在では、ポケットに入れて持ち運ぶことができる。明日には、実際に壁に映したり、情報端末を使って聞いたりしているかもしれない。どうなるかは、誰にも分からないのだ。発展の手助けをするテクノロジーのように、コンテンツは流動的に自身を複製する新しい方法を探す。

このコンテキストではWebはただの媒体であり、次第にモバイルへの影響を失っていく。確かに、スマートフォンから多くのWebコンテンツの閲覧が可能だ。あなたが見つけたもののほとんどは、ソーシャルネットワークアプリやGoogleを通しているだろう。すでに私たちは、この概念にかなり慣れてきている。これらのエコシステムは配信チャンネルで、Webはいまだにコンテンツ消費のエンドポイントだ。

しかし、この配信チャンネルが、同様にエンドポイントになってしまったらどうなるだろうか? これは実際に起こっていることだが、恐らくあなたは関心を向けてこなかったと思う。例えば、ユーザは現在YouTubeよりもFacebookから映像を配信している。これについては、文字コンテンツでも同じことが起こると予測されているFacebookTwitter(すでにモバイルアプリは組み込みブラウザを提供している)がネイティブにコンテンツを配信し、より高速で一体感のある体験を提供し始めることを妨げるものは、何もない。

これがエコシステムのオーナーのロジカルな動きだ。もっと多くを所有してみてはどうか? すでに視聴者が大半の時間を過ごしているなら、なぜハブであるのか? 私は良いものだとは認識していないが、これは優れたビジネスセンスを生み出す。ユーザがこの変化を心配していないとしても、マーケターとデザイナーは不安を感じている。コンテンツの配信と消費における、最新のモデルを台無しにするからだ。

「Webデザイン」の概念は、技術と発想を限定する

私たちは、重すぎる負担と惰性を持つWebデザインという考えを破棄する必要がある。しかし、私たちデザイナーには変化が必要だ。Webテクノロジーは、すばらしいものであり続けるだろう。Webテクノロジーは最初から、コンテンツと順応性に特権を与える、流動的で柔軟性のあるセマンティックなテクノロジーだと考えられていたからだ。私たちがこのレスポンシブデザインの概念を取り入れるのには何年もかかったが、Webテクノロジーは常にレスポンシブだった。私たちのデザインは、そうではない。

これと同じ欠点は、今私たちがWebデザインと呼んでいるものや、レスポンシブWebデザインのアイデアにさえ存在する。これらの概念が精神的近道になり、いまだにWebデザインを当然のことと考る。常に存在するがゆえに、私たちがやっていることの中心だと思い込むのだ。これによって生じる問題点は、どのカルーセルが良いかというディスカッションですぐに方向性を見失い、Webが多くの場合で、他のメディアでは完全に使用されていないと気付けなくなることだ。

レスポンシブWebデザインでは、画面サイズとインタラクションの観点(このようにして、「1024×768への最適化」は、ばかげたステートメントに終わった)から、デザイナーとしての私たちの柔軟性を考えさせられる。さらに、より広い認識でも、これと同様の必要性が発生している。私たちはWebやビジュアルデザイン、全てのデジタルインタラクションとコンテンツ消費の中心であるという前提にでさえ、疑問を持たなければいけないのだ。

例として、自分がWazeのUIデザイン担当になったと想定してほしい。最初に取り掛かる作業は画面デザインだが、恐らく何をしたら良いか分からなくなるのではないだろうか。というのも、Wazeとインタラクションを行う上で重要な役割を果たすのは、画面そのものではなく、聴覚インターフェースだからだ。自らをWebデザイナーと名乗るのであれば、仕事の幅を広げるためには、非常に多くの先入観を捨てる必要がある。

Webデザインが生まれた時代には、ジオフェンシングやiBeacon、NFCはなかった。主要なモバイル技術の急速な進化は、現在のWebのパターンをさらに繰り返すことに比べると何十倍、何百倍も、ユーザエクスペリエンスの向上に貢献している。人々は今、無数の新たな方法でコンテンツを消費しているが、デザインツールや手法は、それに追いついていない

手段に固執していると、問題を正しく捉えられないものだ。

Webデザイナーの概念を拡張すれば、あらゆるものを包括できるだろう。しかし、それでは結局何も定義していないことになり、概念自体が無意味になってしまう。もちろん特定の媒体という観点から、この専門領域を名付けても、クロスメディアの思考を導入するにあたっては、あまり役に立たない。

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柔軟性と順応性を体現する分野があるとすれば、それはデザインだ

実際のところ、近頃は自身をインターフェース・デザイナーと名乗ることが、技術を磨く上で非常にプラスになる。Webや視覚的なもの以外にも、さまざまなインターフェースがあって、中にはデジタルですらないインターフェースも存在することを認めざるを得なくなるからだ。それでもインターフェース・デザイナーである以上、デザインする全ての媒体に精通していないといけない。その際、無駄になるWebデザインのスキルは、何一つないのだ。

そうなると、問題はネーミングなのだろうか? ある意味、その要素は軽視できない。ネーミングや定義の力は絶大で、それによりデザイナーに求められることや境界が設定される。そして結果的に、私たちが何を行い、何に目を向けるかまで決まってしまうのだ。これは、情報アーキテクチャに携わる者であれば皆、経験から学んでいることだ。

課題は配信と集客

私たちは、あらゆるノウハウを生かして、Webサイトやアプリをデザインする。ユーザにインタビューをして、問題に対処し、すばらしいデザインを作り上げ、さらには複数の画面サイズに対応して…そして最後に、完成したものを配信するために誰かに手渡す。公言はしないものの、デザイナーは「それをデザインすれば、人が来る」という一種の信念を持っている。つまり私たちは、自分たちのデザインがどのようにしてユーザに届くのかという点は、それほど重視していないのだ。事実、ユーザエクスペリエンスの概念自体が、私たちが何を作ろうと、それを今すぐ体験できるユーザがすでに存在していることを前提にしている。

しかし皆さんもご存じのように、Web離れが進むことは、コンテンツの配信や集客の問題に直結している。Facebookやその他のソーシャルネットワークは、インターネット上に抽象レイヤを構築して、(恐らく)コンテンツの配信や集客を、より一層容易にしている(それ以前は、Google Adwordsを利用するか、他のポータルのバナーを買うのが最善策だった)。その上、モバイルOSや、モバイル用に構築されたアプリ市場は、ユーザが容易に、大いに、そして何よりも安全にコンテンツやツールを探せる場になっている。

私たちデザイナーは、自分たちが誰かに向けて作ったものの存在を人々に気付かせる、という課題を放置してきた。多くのデザイナーは、コンテンツの配信や集客こそが、プラットフォームやエコシステム、テクノロジーの変化を促しているという事実を直視していないのだ。これは、ソーシャルネットワークやアプリストアを生み出したWeb自体の問題ではない。かつて(Web関連の標準規格や技術、今ある慣例の大半は、2007年にはすでに存在している)、Webは実に順調に進化していた。もう一度繰り返すが、コンテンツそのものが、より良い配信手段を見つけるために新たな技術を使用していたのだ。

そして私たちは、再び同じような課題に直面している。配信と集客に力が注がれた今、それらが乱用され、コンテンツ関連の問題が浮き彫りになっている。私たちの周りには情報や要求、広告があふれ返っているが、それはWebデザインで解決する問題ではない。私たちのベースラインは飽和状態で、ユーザは過剰に刺激されている。場合によっては、ユーザに効率よく価値を提供するために、Webチャネルを一切使用しないというソリューションを取ることもあるだおる(信じられないという方は、モバイルのみで運営している会社のホームページを見てみてほしい)。

今、必要なのは広い心を持つことだ。多くのデザイナーやマーケターは、昔と変わらぬ状況に十分満足していた。そしてクリック数の獲得や、読者にバナーを表示してメールアドレスの入力を促すことを最優先に、ビジネス全体や収益モデル、職務までもが生み出されてきた。物事に満足している人は、それを維持したがるのだ。

この考え方はいまだに、ある種の原動力になっている。なぜなら、いきなりWebデザインが消えることは、どう考えてもあり得ないからだ。やるべき作業がたくさん残っているのは私も認めるが、標準規格や成功事例は、すでにここにある。私たちが、これらの内容に忠実に従わなかったという事実は、標準規格そのものよりも私たち自身について多くを物語っている。実際のところ、多くの企業は、生き残るためにWeb標準を更新する必要があるだろう。一方、それをしない企業は、どれだけのデザインを使用していようと、あっさりユーザに見捨てられるか、新たな配信チャネルの登場により、無用になるはずだ。

まとめ

多くのデザイナーが、私が言うような廃れた作業の類い(私個人は今、デザイン用の巨大なWebポータルを運営している)を行っている最中でさえ、自分のしていることを熟考し、自問する時間を取るだろう。その様子を見るのは、なかなか刺激的だ。このようにして一度立ち止まらないと、私たちは過去の延長線上に未来を描くしかなくなる。そのいい例が、今もWebデザインに満ちた未来を思い描いている、多くのデザイナーたちだ。変化と適応には、常に苦労が伴う。しかし、デザインは何世紀もの間、まさにそれをやってきたのだ。もし柔軟性と適応性を何よりも体現する分野があるとすれば、それはデザインだ。