「不気味の谷」を越えて

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Edge恒例の質問は、今年は「思考する機械についてどう思うか?」だった。

僕の答えは以下のとおりだ:

「考えることについて考えるには必ず、何かについて考えることを考えることになる」 ― シーモア・パパート

思考する機械について僕がどう思うか、という問いの答えは、その機械が考えることになる対象による。僕自身は明らかに、AIおよび機械学習が社会に大きく貢献すると信じている一派に属している。人間が苦手としていることを、機械がはるかに上手にこなすことがわかってくるだろうと期待している。大量のデータ、速度、正確さ、信頼性、従順さ、演算、分散ネットワークおよび並行処理などがからむ事項だ。

ここにはパラドックスがある。我々はどんどん人間に近い挙動をする機械を開発しつつあると同時に、子供たちにコンピューターのように思考し、ロボットのように行動するよう促す教育システムを作り上げてきた。そして我々の社会が現時点でのニーズに合わせたスピードでスケーリングや成長を果たすには、信頼でき、従順で、勤勉で、物理的な筐体をもち、演算能力をもつユニットが必要だと判明した。なので我々は何年もかけて、いいかげんで感情的で気まぐれで言うことを聞かない人間たちを、肉でできたロボットに変換していったわけだ。幸い、機械的・デジタル的存在であるロボットやコンピューターが、早晩、それらを模すように教育された人々に対する需要を軽減したり、場合によっては払拭する一助となるだろう。

それでもまだ我々は、完全とは言わないまでもロボットなどが人間にほぼ近い性質を示す世界、すなわち「不気味の谷」に、ロボットデザインの発展が我々を近づけるほどに想起される、恐怖や嫌悪感を乗り越える必要がある。これはコンピューターアニメーション、ゾンビそして義手について言えることだが、不気味の谷へは両方向から近づくことができる。スマホの音声認識システムが聞き取りやすいように声色を変えたことがある人なら、我々人間の側からも不気味の谷に少しずつ踏み込んでいくことができることを理解しているだろう。

我々がこのような嫌悪感を覚える理由についてはいくつもの仮説があるものの、僕には、人間が自分たちを特別な存在だと思っていること、すなわち一種の実存的エゴが一因に思える。これにはもしかすると一神教関連のルーツがあるかもしれない。西洋の工場で作業員らがロボットを大型ハンマーで叩いていた頃、日本の作業員たちは工場で同じようなロボットに帽子をかぶせ、名前をつけていた。2003年4月7日には日本のロボットキャラクターである「アトム」が埼玉県新座市の住民として登録された。

これらのエピソードが何かを示唆しているのだとしたら、それは、精霊信仰に基づけば、我々人間が万物の霊長ではないかもしれないことにそこまで抵抗を感じずにすむのかもしれない、ということだろう。自然を、万物、すなわち人間や木や石や川や家などすべてが何らかの形で命をもちそれぞれが魂を宿している、複合的なシステムなのだとみなせば、神が我々のような姿をしていたり、我々のように考えていたり、我々のことを特別扱いしてくれたりしなかったとしても、べつだん問題にはならないのかもしれない。

なので、人類がこの自問自答を始めたこの時期に生きていることの最大の利点の1つは、人間の意識の役割についてより大きな疑問を持てることかもしれない。人間は巨大で複雑なシステムの一部に過ぎず、それは我々の理解を超えて難解なものなのだ。魂を宿した木、石、川や家と同様に、コンピューター上で動作しているアルゴリズムも、この複雑なエコシステムの別の一端に過ぎないのかもしれない。

我々人類は進化によってエゴを獲得し、自己というものが存在する気になってはいるが、これは概ね自己欺瞞であり、個体としてのヒトが進化動態の枠組みの中で有用な働きができるようにするためのものだ。その中から生じる道徳観も自己欺瞞の一種なのかもしれない。我々はもしかすると、究極的にはすべてが無意味なシミュレーションの中に生きているかもしれないのだ。そうは言っても我々の倫理観や良識が無意味とは限らない。僕に言わせれば、我々は自分たちが特別だと言い張らずとも、複雑で相互に繋がったシステムの一部である責任感を発揮できるんじゃないだろうか。機械がこれらのシステムの中で重要な役割を担うようになればなるほど、その台頭によって人間たちの間に自分たちがはたして特別なのかという議論が満ちていくであろう。それはよいことかもしれない。

もしかすると、我々が思考する機械についてどう思うかという命題は、別にどうでもいいことかもしれない。機械らは「思考」するだろうし、システムはそれに適用していくだろう。複雑なシステムの常で、結果は概ね予測不能なのだ。現状は現状のとおりで、今後はなるようになるわけだ。我々が今後に関してする予想のほとんどはおそらく絶望的なほど間違っていて、気候変動の例にあるように、何かが起きているという認識と、それに対して何か対処をするということはしばしば、ほとんど無関係なのだ。

以上は非常にネガティブで敗北主義的な見解に聞こえるかもしれないが、僕は実はかなり楽観的で、これらのシステムは非常に順応力と耐久性が高く、何が起きたとしても美しさや喜び、楽しさは存続するだろうと思っている。そこに人間たちの役割があると願いたいし、あるんじゃないかと思っている。

どうやら我々人間は、素晴らしいロボットを作り出す力はそこまではないが、機械に実装するには複雑すぎて不可能かつリソースの無駄になるであろう、気まぐれで創造的な事をしでかすにはとても向いているようだ。理想的には教育システムが、我々を機械のまがい物に仕立てようとするのではなく、人間ならではの強みをより全面に押し出した形に進化してくれるといいのだが。人間は(と言っても必ずしも我々の現在の形での意識や、それにまつわる直論的な哲学のこととは限らないのだが)ごちゃごちゃしたものや入り組んだものを、芸術や文化、意味に昇華させるのがけっこう得意なのだ。人間と機械がそれぞれ最も得意とすることに注力していくことで、相補的な素晴らしい関係性を築いていけるはずだ。人間が半導体ベースの類縁たちの効率性を活用する一方で、彼らは我々のごちゃごちゃした、いいかげんで、感情的で創造的な肉体や頭脳を活用してくれる、そんな関係が。

我々が向かう先を混沌だと考える向きも多いようだが、高まりつつあるのは混沌の度合いではなく複雑性なのだ。インターネットが体外のあらゆる要素を広大で制御不能に思えるシステムへと繋げつつあるのと同時に、我々は自らの生命の内奥を掘り下げれば掘り下げるほど、無限の複雑性を発見しつつある。頭脳がすべてを統制している気になってはいるものの、体内の微生物叢は我々の衝動や欲求や言動に影響を与えて自らの生殖と進化を支援させているわけで、人間と、人間が作り出した機械のどちらが本当に主導権を握っているのかは、いつまで経ってもはっきりしないかもしれない。しかし我々はもしかすると、周囲の他の生物たち、物、そして機械とより謙虚な姿勢でつき合えばいいところを、自分たちが特別であると信じ込むことで、より大きな被害を招いてきたのかもしれない。


Top Image: “Exercise Plays Vital Role Maintaining Brain Health” by A Health Blog / CC BY-SA 2.0