デザイン教育に必要な「くだらない質問をする能力」とは?

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経営アドバイザー、TEDスピーカー、作家。

2010年6月、私はCore77に「Design Thinking: A Useful Myth」(邦訳: デザイン神話の崩壊: あらゆる職種に求められる「デザイン思考」とは?)というタイトルの記事を投稿した(その反響は非常に大きなものだった)。この記事を投稿してから私は、前提を問うことなく解決策に飛びつく人々を多く見てきた。それはエンジニアや経営者、そしてデザイナー(とデザインを学ぶ学生)たちだ。彼らに出会ったことで、私はデザイン思考について改めて考えるようになった。デザインを勉強している学生たちは何も考えずに行動し、ただ指示された通りに課題をこなしていた。彼らは創造力や想像力を働かせず、疑問も抱かない。デザイン思考とは、こういうことではない。そして私は、考えを改めるに至った。デザイン思考は非常に優れたものだ。活用すれば大きな効果が得られるが、残念ながら全てのデザイナーに受け入れられているわけではない。しかし「デザイン思考」という名前で呼んでいるのだから、全てのデザイナーが実践すべきではないだろうか。

私は「デザイン神話の崩壊: あらゆる職種に求められる「デザイン思考」とは?」の記事を見直してみた。主要なポイントについては今でも正しいと思っているが、再考した結果、結論が変わった。最初の記事のタイトルは「デザイン思考:不可欠なツール」にすべきだった。その理由を説明しよう。

ここ数カ月、私はデザイナーの仕事の仕方についてじっくりと考えていた。人目につかない場所で、私の著書である『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』を改版しながらである。この本は出版から25年が経っているが、その中に書いてある根本的な理念は今でも変わっていない。とはいえ、取り上げている例はかなり時代遅れになっている。例えば(蓄音機やタイプライタ、スライド投影機など)今の若い学生が聞いたこともないような技術について説明している。さらに25年間でデザインは大きく変化し、それに伴い私自身も変わった。この本を書いた当時、私は認知科学という分野の教授をしていて、自らをデザイナーとは名乗っていなかった。もちろん今では(誇りを持って)自分はデザイナーだと言うし、ビジネス界で多くの経験も積んできた。こうした変化があって、今回DOETを改訂することにしたのだ。具体的には新しい章を2つ追加している。1つはデザイン手法について、もう1つはビジネス界におけるデザイン業務の現状についてだ。

デザイン手法についてだが、この内容は最初、「Human-Centered Design(人間中心デザイン)」の章に分類していた。しかしデザインの本質や、最近出会ったエンジニアや経営者たちのことを深く考えるうちに、私はあることに気づいたのだ。それは、彼らのように疑問を持たず、詳細検討をもせず、ただ盲目的に問題を解決する人々が、デザイン思考の恩恵を受けられるかもしれないということだ。

デザイナーはこれまで、安易な解決策にとらわれまいと、多くの技術を生み出してきた。彼らは元々の問題を最終提言としてではなく、提案としてまず受け入れる。そしてその問題に内在する真の問題について広く検討する(例えば、根本原因を探るために”なぜなぜ分析”などの手法を用いる)。ここで一番大事なのは、このプロセスが反復的、かつ拡張的だということだ。デザイナーは挙げられた問題に対して、結論に飛びつきたくなる衝動を抑える。その代わりに、まず対処すべき基本的かつ根本的な問題が何かを究明するために時間を割く。真の問題を見つけるまでは、解決策を探ろうとはしない。根本原因が見つかってからでさえ、すぐに問題の解決には取り掛からず、まず見込みのある解決法について広範囲に、そして慎重に検討する。そこまでしてから、やっと提案内容に集中するのだ。このプロセスこそが「デザイン思考」だ。

デザイン思考について、ここで私の立場を再考することにしよう。私は自分の記事と、それに対する大量のコメントを全て読み返した。コメントの大半はCore77上のものだが、それ以外のものもある。これまでと同じく、読者の反応は興味深いものだった(私が(いつも)意図的に挑発的な態度をとっていることを理解していない人もいたが)。デザイン思考というテーマは非常に多くの記事や書籍で取り上げられてきた。これは驚くべきことだ。そして様々な意見がある中で、私が気に入っているのは、同業者であるBill Moggridgeが書いた私の見解に反論する記事の7段落目とダイヤグラムだ(残念ながらBillは2012年9月に亡くなった)。

私は今でも主要なポイントは変えていない。デザイン思考はデザイナーだけに与えられたものではなく、全ての偉大な革新者たちが実行してきたものだ。そして今は、デザイナーがその特権を持っていると確信している。近年では、デザイン思考はデザイナーやデザインスタジオの品質証明にもなっている。その手法は、2つの強力なツールに集約されている。1つはイギリスのデザイン評議会の「ダブルダイヤモンド型の発散・収束デザインモデル」。もう1つは観察、コンセプト考案、プロトタイプ化、評価のプロセスを繰り返す「人間中心デザイン」と呼ばれるものだ。

もちろんダブルダイヤモンドやHCDの反復サイクルだけがデザイン思考ではない。その他の要素としては、製品の対象ユーザについて深く理解すること、つまりは観察がある。アンケートやフォーカスグループにとらわれず、対象ユーザを観察し、深く共感しなくてはいけない。さらに継続的な実験も必要だ。頻繁にスケッチをしたり、コンセプトやアイデアを評価し、試用したりする作業だ。また、自分の仕事であれ、他人の仕事であれ批判するプロセスも含まれる。そしてもう1つ重要なのは、問題や前提、言外の意味について疑問を持つことだ。

このような手法を何と総称したらいいだろうか? おそらく、その答えが「デザイン思考」だろう。私は今ここで認める。デザイン思考とは特別なものである。

私のオリジナルの記事は正しかったのだ。私たちがデザイン思考と呼んでいるものは、文学や芸術、音楽、科学、工学、ビジネスなど様々な形で、全ての偉大な思想家たちに実践されている。しかしデザインにおける違いは、創造的改革のための体系的かつ実践的な手法として、それを教育する試みがあることだ。こうした活動はいずれ、特別ではなく当たり前のことになっていくはずだ。

くだらない質問に秘められたパワー

私の懸念の1つにデザイン教育がある。というのもデザイン教育は、技術に焦点を当てるばかりで、デザイン理念や人間の心理、技術や社会について深い理解を得られるものになっていないからだ。そういった教育を受けた結果、デザイナーたちは、問題を全く理解しない状態で解決しようすることがよくある。私は無知には偉大なパワーが眠っていると考えるようになった。それは、くだらない質問をする能力だ。

では、くだらない質問とは何だろう? 自明な質問だろうか。質問を聞いた人は「分かり切ったことを質問するな」、「こいつは無知だ」などと思うだろう。ところが、自明なことというのは、実際はそれほど自明でないことがよくある。大抵の場合、それは古くからあるため誰も疑問視してこなかった共通認識や慣習を指している。いざ質問されると言葉に詰まり、時にうまく説明できないようなことだ。物事が大きく進展する時というのは、自明なことに疑問を持った時だ。それが大躍進のきっかけになる。私たちは自明なことを問い、自分の考えを再構築し、そして既存の解決法や手法、考えを見直す必要がある。デザイン思考とはそういうことだ。

くだらない質問をしてほしい。特定の分野に精通している人は、めったに基本的な知識について疑問を持たない。専門外の人は、ぜひ質問をしよう。何度も質問すると、無知だと見られるが、それでいいのだ。知識とは、そうやって習得していくものだ。その質問が時に、基本的で重要な見直しのきっかけになるのだ。

デザイン思考へのエール

最後はMoggridgeの引用で締めたいと思う。以下は、私のオリジナルの記事に対する彼のコメントの最後の一節だ。

「デザイン思考」という言葉は神話のようなものではない。吟味されたデザインプロセスを新たな課題や機会に対して適用する方法を示したものだ。デザイン思考は、デザインに関する背景知識がある人も、そうでない人も使用している。私はデザイン思考という言葉を喜んで受け入れよう。そしてこの言葉が広まり続け、世界中の人にさらに理解されることを願う。そうなれば最終的に全てのリーダーが改革のため、そしてより良い結果を得るために、デザインやデザイン思考を活用する方法を身に付けるだろう。 — (2010年 Moggridge

デザイン思考に関して3つのエールを送る。この技術を使っている、または画期的な思考を薦めている、くだらない質問をすることを薦めている実践者と学校に対してである。全ての学校がこのような方法でデザイン思考を教えているわけではない。そしてデザイン思考を学んでいない学生や、実践していないデザイナーもいる。しかしデザイン思考に関する全ての技術を教え、学び、そして実践している人々にとって、それは大きな変化をもたらすはずだ。